学生のための研究の方法
1. 研究するとはどういうことか
研究することを一言で表せば,「知を体系化すること」である.もっと簡単に言えば,「モノゴトをちゃんと説明すること」である.だから,ちゃんと説明できない以上は研究ではない.しかし,ただ説明をすれば良いのではない.「ちゃんと」しなくてはならない.ここで言う「ちゃんと」とは,筋道が立って論理的である,という意味である.筋道が立って論理的であるということは,すなわち独善的ではなく,関連するそれまでに取り組まれてきた研究成果をもとに,それらと論理的にどのような関係にあるのかが明確になっている必要がある.これらの関係を整理し,論理的に自分の取り組んでいる問題の位置づけを明確にし,わかったことがこの関係の中でどのような価値があるかを示す,つまり体系化することが研究なのである.
研究をすると言っても,取り扱う対象によって様々なアプローチがある.化学や材質学のように物性的なものを対象とする分野もあれば,心理学や社会学のように人間の活動を対象とする分野もある.また,医学や教育学などのように理論的な側面と臨床的な側面の2つを併せ持つ分野もある.しかしどのような分野の研究であっても,研究の目的は共通している.それは,「新しきを知ること」である.この目的は,未踏の地を探し求める探検家のものと重ねることができる.探検家が未踏の地を発見することは極めて困難である.なぜならば,ある場所について,人類の歴史以来,誰も足を踏み入れたことがない場所であることを誰も証明できないからである.したがって探検家は,その時代の文明の水準と照らし合わせて,過去にその場所に到達することは現実的に不可能であることを根拠にして,そこが未踏の地であることを主張するのである.しかし研究の世界は幸いなことに探検の世界とは事情が異なる.研究の世界では,論文という形で必ず足跡を後世にも残すことができるのである.つまり研究の世界において,そこが“未踏の地”であること証明するには,その領域に関する論文が存在しないことを示せば良いのである.言い換えれば,過去から積み重ねられてきた論文が示す研究の中で,取り扱われてこなかった領域や議論されてこなかった問題こそが,研究の世界の“未踏の地”なのである.
だが“未踏の地”を発見することは,研究の世界では探検の世界と比べて楽かもしれないが,一方で,研究の世界は探検の世界よりも成果を出す点では困難なのかもしれない.探検家は未踏の地に到達し,そこに到達した証拠を帰還した際に示せば,前人未到の場所に立った人物として歴史に名を刻むことができる.つまり目標とした場所に立ち,生還すれば良いのである.だが研究者は異なる.たとえ研究の世界での“未踏の地”に到達しても,そこで「新しきを知ること」(発見)がなければ,最初から何もしなかったのと同じであると見なされてしまうのである.さらに,発見があったとしても,その発見を論文として公表し,他の研究者らによる批評を受け,それらの批評に対してある意味勝って初めて成果として認められるという過酷な試練が待ち構えているのである.
研究とは知の戦いである.まず数多い過去の研究者と戦わなくてはならない.そして新たな発見に至るまで,様々な障害や自分自身との戦いに勝たなくてはならない.最後には,同じ時代を生きる他の研究者と戦い,勝たなくてはならない.戦う以上は負けることもある.幸い,研究の世界では負けることは,その世界からの撤退を意味するわけではない.単に勝負に負けただけである.つまり再度戦いを挑み,最後に勝てばよい.そして戦いに勝ったとき,勝者の名は人類の歴史が尽きるまで半永久的に記憶されるのである.だから,誰もがその名を知るガリレオやニュートン,デカルト,アインシュタインといった研究者たちは,その時代の戦いに勝ち,今もなお勝ち続けている人たちなのである.
人は今を生き,いずれは死ぬ.しかし研究者は,死んだ後も自分が産み出した成果を生き続けさせることができる.つまり研究者は,未来に自分の産み出した成果を生き続けさせることで,未来の人々に「知の贈り物を届けること」を担っているのである.
サマリー
多くのモノゴトを良く知り,それらを身近な存在とすることで,その背後に潜む研究の“種”が見えてくる.
2. 研究活動のAtoZ
研究することとはどういうことかが理解できれば,あとは取り組むだけである.研究には大きく分けて4つのフェーズがあるといえる.
- 素朴な疑問,関心,問題意識など個人的な動機の醸成
- 研究目標の設定と取り組み
- 成果の公表と洗練化
- 他の研究への貢献と分野・領域の再体系化
以下に上記のフェーズごとに,どのように実践していくかのモデルの1つを示す.
a) 素朴な疑問,関心,問題意識など個人的な動機の醸成
どんなに一流の研究者であっても,研究の端緒は極めて個人的で,かつ素朴な疑問や関心である場合が多い.工学分野の研究では,こういうモノやマシンが欲しいというマインド(ニーズ)であることもある.このように書くと,一見誰もが研究の動機をもつことができそうであるが,実際には“動機をもつこと”そのものが能力なのである.つまり,研究をするためには,研究の動機をもつための能力が必要なのである.それを習得するためには,平易な言葉で言えば,あらゆるモノゴトを良く知ろうとする姿勢が重要である.例えば,水が凝固するときには体積が増加する.しかし水以外の液体が凝固する場合は,一般にその体積は減少する.この一般知識を知らないと,水が氷に変化するときに体積が増加するという“不思議”を不思議だとは思わない.もっと踏み込んで言えば,世の中の当たり前とされていることに対して,それは本当か,真実かと疑念をもつことである.世の中で当たり前としてまかり通っていることの1枚薄皮を剥けば,それが単なる迷信や古い慣習に基づいている以外のなにものでもない場合がある.研究の“種”とはこのように,極めて身近なところに潜んでいるものである.したがって,できるだけ多くのモノゴトを自分にとって身近な存在とするために,それらを良く知ろうとする姿勢が重要なのである.
サマリー
多くのモノゴトを良く知り,それらを身近な存在とすることで,その背後に潜む研究の“種”が見えてくる.
- 参考図書:
- 外山滋比古著, 「思考の整理学」, ちくま書房, 1983.
- 小田実著, 「何でも見てやろう」, 講談社, 1979.
b) 研究目標の設定と取り組み
研究活動の一連のプロセスの中で,このフェーズの初っ端が最も大事なのかもしれない.なぜならここで「研究のおもしろさ」のほとんどが決まるからである.よく研究者同士の会話の中では,この「おもしろさ」に関する話題があがる.あの研究はおもしろいとか,あの研究はいいところ突いているのだけどおもしろくない,などである.この「おもしろさ」の評価軸は,エンターティナーが表現するおもしろさとは異なる(ただし,研究者を喜ばせ,ワクワクさせる意味ではエンターティナーのそれと等価であるかもしれない).研究者にとっての「おもしろさ」とは,今まで見えていた世界に新しい眺望(perspective)を与えうるsignificantなものか,という評価に極まるだろう.エンジニアリングなど技術寄りの分野だと得られた客観的な成果そのものを重視する傾向が強いが,それでも研究者である以上,必ずこの「おもしろさ」を希求するといって間違いない.
それでは「研究のおもしろさ」はどのように発見できるのだろうか.その第1歩は簡単である.自分がおもしろいと思うことである.これがなくては始まらない.しかしこの「おおしろさ」は極めて個人的である.したがって他の研究者からすれば,「そんなこともう議論し尽くされてるよ」という冷めた論評をせざるをえないこともある.そしたらその研究者にこう尋ねるといい.“けど,こういう観点では議論されていませんよね”.“この観点からアプローチすると,こんな新しいことが見えてきませんか?”,と.こうして自分以外の人と「おもしろさ」を揉むことで,さらに新たな眺望が見えてくることもある.
しばしば若い研究者が,自分が感じた「おもしろさ」を他人に公表したときに,「もうそれは○○先生がやっちゃってるよ」と指摘されることがある.こう言われてしょげるのは,よっぽどの自信家である.大抵こういうときに名前が出てくる○○先生というのは,最低でもその分野の中ではそこそこの実績を出して,記憶に残る程度の仕事をされている人であろう.その若い研究者が○○先生に匹敵するくらいの力があるのであれば,しょげるというのも仕方がないかもしれないが,普通はまだ駆け出しのペーペーである.そしたら検挙にこう思う方が幸せである.“なんだ○○先生と言っても,ぺーぺーの自分と同じようなことをおもしろいと思ったんだ.つまり自分もまんざらじゃない研究センスをもっているのかもな”,と.要は自信家になるより,楽天家になった方が幸せだということである.
閑話休題.「おもしろさ」は,それを共有できる仲間が多いほど,よりおもしろみは増す.もちろん,たった1人の研究者が他の研究者が想像もつかなかった新たな境地を一気に切り開くということもない訳ではない.が,実際にはそういう人であっても,他人からは見えないところで多くの人々とのディスカッションを経て「おもしろさ」を発見しているという事実を忘れてはいけない.それは家庭の中であったり,膨大な過去の先行研究であったり,極めて身近な有能な同僚らとのコーヒーブレイクのときであったり,弟子との語らいの中であったり,と公的な場では見えないだけのことであり,実際は1人の力だけでは多くの人々を惹き付ける「おもしろさ」を発見することは非常に難しい.それぐらい現代の研究の世界は多様化しており,複雑化しているのである.だからこそ,研究室の同僚らとの雑談,ゼミでの討議,研究会やワークショップなどでの普段会わない人とのディスカッションなどの機会は貴重なのである.『お勉強』は1人でするものであるが,『学問』は1人でするものではない.孤高の研究者となることは否定しない.が,しばしばそれは独善的な,いわゆるトンデモ系研究者となってしまうリスクを大きく伴う.他人に迎合しろと言うのではない.他人を巻き込めと言っているのである.人が集まれば,そこに重力が生まれる.重力はさらに多くの人を呼び寄せる.しまいにブラックホールになってしまって何もかも吸い込むばかりで光さえ出てこないようになっては本末転倒だが,まずは問題意識を他人と共有して個人の「おもしろさ」を仲間と揉むことで,この「おもしろさ」をどうやって研究として実行していくかという具体的な取り組みの指針が見えてくるはずである.
研究の方法論的な手続きは,取り扱うテーマによってそれぞれ異なってくるため一般論としては述べることはできないが,しかし共通して言えることは,「やってみる(try)」ことの重要性だろう.やってみた先に何があるかははっきりとは分からない.しかし論理的に考えて何かがある可能性があるとする.何かがなくては説明がつかないこともある.そのときには「やってみる」のである.
ところがここで途端に臆病になってしまう人がいる.やってみても何もなかったら無駄じゃないかとか,何があるか分からないのにやってみるのは無謀だとか,色々理由はある.しかし,先行きの見込みが立たないから踏みとどまるのは,言い方を変えれば,先行きの見込みが立たない程度の思考力しか持ち合わせていないのである.つまりいくらそこで考えても,分かることは皆無である.それこそ時間と労力の無駄ではないだろうか.
サマリー
- 参考図書:
- 佐伯胖著, 「認知科学の方法」(第1章:「おもしろい研究をするには」), 東京大学出版, 1986.
c) 成果の公表と洗練化
研究成果を公表することは,研究者が受け入れるべき暗黙的な義務である.その理由は単純である.研究成果は研究の発展のために他の研究者らと共有されるべきであり,同時に研究は1人ではなかなかできないからである.この辺りはラグビーというスポーツの金科玉条とされている「One for all, all for one」という精神と近いといえよう※.要は研究を互助的に発展させていくためには,まず自分が得た研究成果を公表する(publication)ことで関連する研究領域の発展に貢献し,そこから得られた他の研究者による研究成果を自分の成果のための肥やしとするということである.
(※ といっても,グラウンドで実際にこの言葉をまんま口にしている場面に遭遇したことは,30年近いキャリアの中でこれまで一度もなかったように記憶している.しばしばこの考えを「自己犠牲」と解釈する人がいるが,それは間違いである.むしろ社会契約の一形態と考えた方が素直であろう.)
一般に大学や公的な研究所で行なわれる研究は,何をテーマとして取り組み,何に貢献しようとするのか研究者の自由意志に基づいて決まる.そのため,研究成果を上げなくても好きなことをしていられるかもしれない.だが常識的に言って,研究成果を上げてそれを公表し,他の研究者からの評価を受けていないと,好きなことを続けることは困難である.その理由は本章冒頭で述べてある.つまり自分がやりたい研究を続けるためには,研究成果を上げる努力を怠ることなく取り組み,得られた成果を公表していかなくてはならないという明文化されていないスキームに従う必要があるのである.加えて,研究成果は公表して初めて世の中に研究成果として存在していることが認められるものであり,公表しなければたとえ素晴らしい革新的な研究成果であったとしてもその存在は認められない.言い換えれば,研究の“締め”を適切に実行したときに初めて,その研究の存在が世に認められるのであり,“締め”までやり遂げてこそ研究成果が本当の成果として認められるのである.したがって,どんなに研究室では“いい仕事”をしていても,研究成果を公表しない限りは“遊んでいる”のと変わらない.少なくてもビジネスとして,仕事として,本分として研究活動をするのであれば,遊んでいては駄目である.研究成果は世に公表し,意義と価値を問うことでその存在が確立されるのである.
実際のところ研究成果を公表するという既成事実を作ることは特別難しいことではない.むしろある一定のフォーマットに従って手続きを踏めば,事実上誰でも可能である.しかし公表という行為そのものは容易に可能であっても,重要なことは,それを受け取る人がいるかどうかという点である.実はこの点が一連の研究活動の中で多くの研究者を苦しめている.たとえ研究成果を公表したとしても,その成果に誰も関心をもたなければ,その研究の存在意義が薄れてしまう.つまり研究成果を公表するということは,公表することによって研究の存在を明示化すると同時に,研究の存在意義を広く知らしめ,多くの研究者がその研究に関心をもってもらうように働きかけることと同義なのである.
ではどのように研究成果を公表することによって,その研究の存在意義を周知させ人々の関心を向けることができるのだろうか.研究成果の公表方法としては一般に以下に示すような場が用意されている.
- 学術論文誌(ジャーナルペーパー)への投稿と査読の採択による掲載
- 国際会議への投稿と査読の採択による口頭(ポスター)発表とプロシーディングへの掲載
- 所属学会の大会や研究会などでの口頭(ポスター)発表と予稿集への掲載
- 各種ワークショップやシンポジウムなどへの投稿と口頭(ポスター)発表,予稿集の掲載
- WWWでの自主的な情報発信
近年は出版物を電子化する傾向が強く,電子ジャーナルへの仮想的な掲載という形態が取られることが多い.とはいえ,仮想的なのは掲載形態だけであり,現在でも依然,研究者自身が他の研究者を聴衆として自分の研究成果について説明をすることを通してその意義を説く形態が続いている.論文は,言葉を中心に決められたフォーマットに従って文章や図表を使って研究成果を数ページ分の紙面に書き記したものである.国際的な評価を受けるつもりであれば,通常は英語で論文を執筆し,国際的なジャーナルペーパーや国際会議に投稿する.そのため,しばしば日本人研究者にとってハードルとなるのは言語の壁である.しかしこのハードルは努力と労力を掛ければかけるほど低くなる可能性がある.問題は研究の「おもしろさ」をいかに他の研究者と共有できるかである.逆に「おもしろい」研究であれば,ある程度稚拙な英語であっても高く評価される可能性はある.できる限り多くの研究者に自分の研究成果を知ってもらい,評価してもらうためには英語で論文を執筆することは必要不可欠であろう.だからこそ正直ヘタクソな英語でしか論文が書けなくても,専門の校閲業者を利用するなどして十分に読むに耐えうるものに仕上げ,積極的に公表する機会をうかがうべきである.
余談であるが,一生懸命取り組んだ研究をまとめ,執筆した論文を学術雑誌に投稿した結末として“不採録”という通知を受け取ることがある.これは率直にいって悔しく,口惜しいものである.ましてや明らかに査読者(編集委員)の誤解と思い込みに基づいた不採録理由である場合も少なくはない.しかし査読者あるいは編集委員を経験してみるとわかることだが,そのような誤解を生むそもそもの原因は執筆者にあることが多い.つまり論文を読んでも,筆者の感じている「おもしろさ」がうまく文章の中で伝わってこないのである.もちろん読む側の感度の問題もないとは言えない.しかしたとえ感度が悪い人に対しても「おもしろさ」を適切に伝えられてこそ,多くの人々に「おもしろさ」を伝えられるのである.したがってこの場合は,素直に不採録理由をよく読み,何が自分に足りなかったのかを再度吟味することが最も有意義な対応である.とはいえ,重箱の隅を突くような揚げ足取り的な理由を返してくる査読者もいる.しかしここも耐えるのが賢い.要は研究の本筋で査読者を魅了できなかったのである.だから執筆者にとってはどうでも良さそうなことに査読者の目がいってしまったのである.大事なことは,査読者や編集委員を味方につけるための努力をすることである.よほど明白な瑕疵が査読プロセスにあったのであれば異議申し立てをすべきだが,そうでなければたとえ投稿した論文が不採録と判定されてしまっても,そこで立ち止まっているのではなく,次のことを考えてより多くの味方を増やすための戦術を検討した方がずっと実りのある経験になるであろう.
研究成果を公表する手段として,論文を投稿する他にも口頭発表やポスター発表など,直接目の前の聴衆に対して自分が取り組んだ研究とその成果をアピールする機会がある.このような公表形式は,いわゆる短期決戦型である.一般に口頭発表であれば15〜30分程度の持ち時間の中で,効率的かつ簡潔に自分の研究に関して聴衆に説明し,アピールしなくてはならない.そして聴衆がその場で感じたり,考えたりした意見や質問に対して発表者は即座に回答しなくてはならない.これをソツなく実行するには相応の知識とスキルを要する.壇上に立った瞬間に頭の中が真っ白になってしまうようでは困るが,たとえキャリアを多く積んだ研究者であっても,多くの聴衆を前にしてプレゼンテーションすることは容易ではない.少し大袈裟に例えるならば,数十分の限られた時間の中で自分が被告人兼弁護士になって判事や陪審員に自分の無罪を主張し,その数分後に判決が下されるような状況を想像するといいかもしれない.口頭発表とは,それくらい自分の研究に対する聴衆の態度がリアルタイムにぴりぴりと感じられる発表形式である.それゆえ,聴衆の態度が明らかに自分の味方になったと感じられたときは,気持ちが高揚することもある.そんなときは,一旦発表すべき内容を言い終えた後の質疑応答の時間に,有益な質問や意見が多く出てくる.しかし逆に聴衆の反応が今ひとつだな,と感じられたときは,大抵研究の本質とはほとんど関係がない質問や,見逃したスライドの確認など,議論とはほど遠い時間をしばし過ごさなくてはならない状況に追いつめられる.経験豊かな座長だったりすると,発表者でさえ気がついていなかったその研究の「おもしろさ」を,あたかも発表者がうまく表現できなかったかのように聴衆に解説し,聴衆との議論をコーディネートしてくれることもある.が,このような人が,自分が発表するセッションの座長をしてくれることを期待するのは止した方がいい.大抵は,「ありがとうございました」と次の発表者に順番を譲れと宣告されるだけである.研究そのものが,そもそもおもしろくないのであれば,このような事態になることは仕方がないことであるが,「おもしろい」研究にもかかわらずそのような事態になるのは,発表者の準備とスキルの不足と言われても仕方がない.
研究成果の口頭発表ではないが,新製品のリリース発表において世界で最もimpressiveかつexcitingなプレゼンテーションをする人物として,アップル社CEOのSteve Jobsが挙げられる.彼のプレゼンテーションは人々を魅了し,たとえ言葉(英語)の意味の1/3程度しか語学的に理解できなくても,聴衆に商品の何が新しく,何が素晴らしいのかを直感的に理解させ,その商品を欲しくなる気持ちにさせる“魔力”をもっている.この“魔力”の根源が何であるかを調べたのが,次の10項目である.Steve Jobsはこの10項目をすべて満たすプレゼンテーションを常に行なっていると言われている.実際に彼のプレゼンテーションは,YouTubeなどで見ることができるので参考になるであろう.
- テーマを示す.
- 意気込みを表す.
- アウトラインを示す.
- 数字に意味を持たせる.
- 記憶に残る瞬間を作る.
- 視覚的なスライドを創る.
- ショーとして伝える.
- 小さなことに動揺しない.
- メリットを売り込む.
- リハーサル,リハーサル,リハーサル.
この中で最も重要なものは,x.のリハーサルの繰り返しであろう.自分がプレゼンテーションをしようとしたとき,最初の何回かは,所定の時間内に発表を終えられるかということに頭がいってしまうだろう.そのうちだんだん自分が発表者としてではなく,聴衆の1人として自分の発表を聞けるようになってくるはずである.そうすると,“内なる他者”がこう囁いてくるはずである.「なんで?」「どうして?」「それじゃわからない」「無理ない?」など,自分の発表を批評するが聞こえてくる.これが聞こえないようであれば,よっぽどの自信家かスカポンタンである.自省した方がよい.効果的なリハーサルの仕方は,自分が発表している様子をビデオに録画して自ら見てみることである.これは少々恥ずかしいことであるが,自分の欠点や自分だけが納得してしまっていて説明が不足している部分などがよく見えてくる点で効果的である.無論,同僚に見てもらうことも効果的である.その場合,自分と同等以上のキャリアを有している人の方がいい.問題点を的確かつ率直に言ってもらえる.
国際会議などでの英語による口頭発表の場合は,可能であればネイティブスピーカーに聴衆役をお願いして,特に使用する言葉や仕草,間などをチェックしてもらうとよい.そのときに,質疑応答の想定問答も練習しておくとなおいいだろう.意外と質疑応答の場面のような,事前に準備があまりできない即興的な対話をする際に発せられる言葉が,しばしば不適切な表現であることが日本人研究者に多いとネイティブスピーカーから指摘されている.一例を挙げる.質問者に将来展望としてある方向に発展させていくつもりはあるか尋ねられたとしよう.そのとき,「それはちょっとわからない」という意味で,「I’m sorry, I don’t know」と思わず答えてしまったとする.すると恐らく質問者は一瞬動揺するだろう.「I’m sorry」というのは,「私はそのことに対して心を痛めている」という意味の謝罪である.質問者にしてみれば軽く提案してみただけのことに謝罪されたとなれば,逆に恐縮してしまう.しかし次の瞬間,恐縮したことを質問者は後悔させられるのである.「は?何あんた言ってんの?」とか「なんでそんなこと聞くのさ?」「知らねーよ」という意味に取られるのが「I don’t know」である.下手すれば質問者の不興を買うだけでなく,会場を一瞬で凍り付かせしまうかもしれない.会場の空調装置が故障して暑くて堪らないならば感謝されるかもしれないが,やはりこの場合であれば,「I’m not sure …」と答える方が自然かつ無難だろう.
- 研究成果は自分以外の研究者と共有して初めて研究成果として認められる.
- 論文の執筆や発表は研究成果を製品と見立てた営業活動である.商品を売るための努力が必要である.
- 研究活動は,何度も粘り強く繰り返していく中で洗練させていくものである.
- 参考図書:
- カーマイン・ガロ著, 井口耕二訳, 「スティーブ・ジョブス 驚異のプレゼン 〜人々を惹きつける18の法則〜」, 日経BP社, 2010.
d) 他の研究への貢献と分野・領域の再体系化
このフェーズのことは,1人の研究者の力でどうにかなるものではない.むしろ自分は,自己組織化する研究コミュニティ/研究領域の中の要素の1つとして,相対的に捉えた方がわかりやすいだろう.
現代社会におけるアカデミックな研究は,極めて多くの専門分野に細分化され,1人ひとりの研究者はそれぞれ狭い世界の中で活動していると言っても過言ではない.それゆえ自分の研究が,自分が属していると専門分野以外に対してどのように寄与することができるかを正確に予測することは非常に困難である.かつて丸山真男は『日本の思想』において,日本の社会はタコツボ型で,欧米の社会はササラ型だと類別したが,研究の世界は国内外問わず概してタコツボ型である.このことは当然の成り行きであり,専門性が高度になればなるほど各研究は先鋭化し,他の研究との境界が鮮明になってくるからである.丸山は,欧米は教会など精神的共同体を通して異分野同士が互いを語らう環境があると述べているが,少なくてもサイエンス,テクノロジー,医学などの分野では,その論が当てはまるかは疑問である.
現代の研究者はその専門性を追求するがゆえに分野・領域の壁を作ってしまうジレンマの中にいるが,しかし丸山が述べたような異分野との交流を担う教会の役割を現代社会では,産業界や軍,政府が担っているのかもしれない.そうなると,研究者が主体的に他の研究分野や領域の研究と接点をもつ可能性がないように思えるが,そんなことはない.
近年の急速な情報通信技術の発達によって,個々の研究者の研究成果は極めて簡単に電子的に流通・共有させることができる.現在では,公表された世界中の研究成果がリポジトリに登録されており,インターネットを利用してそれらにアクセスすることができる.そのため,少なくてもサイエンス,テクノロジー,医学などの理系的な分野では,自分が知らない分野や領域の研究者が自分の研究成果を利用している可能性が増加してきているのである.
インターネットは誰でも手軽に利用可能な情報インフラストラクチャーである.インターネット(WWW)を通じてかなり広範な分野・領域の文献や研究動向を手に入れ,知ることができる.同時に自分が取り組んでいる研究についても世界に向かって公開することができる.その点ではインターネットを利用することは,研究活動がタコツボに閉じないための大きな助けとなる.しかしインターネットから得た情報だけではやはり伝わらないものがある.
研究者はときとして表現者でもある.それゆえ,研究者の言葉と研究の道程は,聞く者知る者の心を突き動かす力をもつことがある.世界は小さくなった.それはインターネットの話だけではない.現代では,世界中どこでも2日もあれば行きたいところに行くことができるのである.そうなれば,世界中の他の研究者と同じ時代を生きていることを自覚すべきである.会いたい人に会えるのである.
自分の目で目的の人の姿を見て,自分の耳でその話を聞き,自分の口で話してみることができるということが,現代の研究環境の大きな財産になっていることを自覚している人は多くはない.だが,かつてはそれが本当に困難だったのである.極端な話,現在ではDon Normanが今,どこで何をしているかは,彼のTwitterから知ることができてしまうのである.
有名人に会いに行けというのではない.重要なことは,(いろんな)他の研究者と会うことで,直接その人のideaとpassionを知り,感じることである.そして自分の研究に対するideaとpassionを相手に伝えてみる.この研究者間の直接的なコミュニケーションが最も効果的に研究者のものの見方(perspective)を変える力をもっている.研究者が新しいものの見方に出会えば,その研究者は変わり,研究の地平も新たに開拓される.その変化は地殻を移動させるマントルの流れのように,地上の世界,つまり研究の分野・領域を様変わりさせる大きな力となる.研究は人がやるものである.つまり人が変われば研究も変わる.極めて単純なことだが,やはり敷居が高そうに感じるのは誰も同じである.たとえ同業者だと分かっていても,知らない人,それが外国人であればなおのこと,躊躇してしまうのも当然である.誰もがそうだからこそ,その敷居を下げるための方法をみんな考えている.そこで用意されているのが懇親会(バンケット)である.ここでは別に研究の話ばかりをする必要はない.「帰国する前にちょっとエクスカージョンに出かけようと思っているんですが,どこかお勧めの場所はありますか?」と会議のホストを務めている先生(大抵はそこそこ名の通った研究者であることが多い)に尋ねてみてもいい.たまたま隣に座った何人なんだろう?この人は,という人にでもいい.「アルコールは召し上がらないのですか?」とビールを差し出してみるだけで,何かの反応は返ってくるはずである.自分が興味をもった発表をしていた人がいれば,「今日の発表,大変勉強になりました」と賛辞を送って無碍な反応をする人は,そもそも懇親会のような場に参加したりしない.要は話のきっかけなんて何でもいいということである.そして,ある程度打ち解けた頃に思い出したように,「あ,ご挨拶をしていませんでした.私は…」と名刺を相手に渡しながら研究の話をし始めれば,大抵何とかなる.よく若い人に見られることだが,懇親会を減った腹を満たす場として考えるのはよくない.そもそもここで出てくる食事のコストパフォーマンスは決して良くない.懇親会費分も出せば,かなりいい食事をゆっくりと味わえる.したがって,腹が減っていてもここは少し我慢をして,顔を広める場として捉えた方がいい.特に近い将来に博士号を取得できる見込みがあり,研究ポストを探さなくてはならないような人にとっては,この場は絶好のリクルート活動の場となる.腹が減ってもポストが欲しいという時期であれば,懇親会を通して多くの人と接点を増やしておくことが,将来の可能性を広げるかもしれない.ちょっと声を掛けづらいくらい多くの人に囲まれている目的の人と話したければ,その人と近い関係の別の人に紹介してもらうことをお願いするのが一番いい.結婚したいと相手の父親に挨拶しに行ってうまくことを運ぶためには,まず母親を味方につけておくのが基本であるのと同じように,接触が難しそうな人に向かうには単独で飛び込むより,その人に近い人にうまいこと仲介者になってもらうのが賢いやり方である.
話が少々脱線したが,1人の力で研究マップを塗り替えるのは,現代においてはほぼ不可能である.しかし1人ひとりの研究を広く多くの人々と共有する機会が増大したことによって,誰もが研究のモード,重心を変える可能性は大きくなっている.一見矛盾しているようであるが,現代社会においては,1人の万能スーパーマンよりも「おもしろさ」を共有する100人の地味で真面目なエキスパートの働きの方が,研究の進展には強く寄与するのである.
サマリー
- 参考図書:
- 丸山真男, 「日本の思想」(新書), 岩波書店, 1961.
- Don Norman’s Tweet: http://twitter.com/#!/jnd1er
3. 学生という身分での研究
一般に大学4年生になると,卒業研究という大学生活を締めくくる“通過儀礼”を行なわなくてはならない.さらに大学を卒業後,大学院に進学すると,修士課程(博士前期課程),博士課程(博士後期課程)というスキームのもとで研究活動を行なわなくてはならない.修士課程では修士論文を執筆し,研究成果が一定の水準に到達しているかを審査され,審査に合格すれば修士号を取得できる.同様に博士課程では博士論文を執筆し,執筆者が1人前の研究者として認められるかを,論文の審査や公聴会と呼ばれる口頭試問を通して判定される.この審査に合格した者は博士号を取得でき,現代においては1人の独立した研究者であることを証明するライセンスとして利用できる.
大学4年生が卒業をするために行なう(学士号を取得するための)4年生での研究,修士号を取得するための修士課程での研究,博士号を取得するための博士課程での研究は,いずれも大学教員の指導のもとで行なわれる研究活動であるが,卒業研究の延長が修士課程での研究となり,修士課程での研究の延長が博士課程での研究の延長になるわけではない.これらはそれぞれ異なる目的のもとで取り組まれるべき研究であり,指導する側の姿勢はもちろんのこと,各課程における学生として研究に臨む態度も違ったものとして考える必要がある.
まず卒業研究は,基本的に「教育」の一環として取り扱われる.指導教員は,卒業研究に臨む学生が,自らの主体的な姿勢のもとで与えられた問題を解決するために必要な知識やスキルを身につけさせることを目的としている.これは一種のトレーニングであり,研究者としての基礎的な素養を習得させられればよいと考えられている.ここで習得された基礎的な素養は,必ずしも研究をするためだけのものではなく,世の中の大半を占める悪構造問題を解決するための能力として,学生の将来において役立てられることが期待されている.したがって卒業研究では,必ずしも研究成果として目に見える形にすることは求められてはいない.とはいえ,小さいものでも研究成果を出すことは,1年間をかけて取り組む学生の達成感は大きなものになるので,指導教員も自ずとより高い水準での研究をすることを望む.
大学卒業後に進学する大学院は,基本的に「教育」の場ではなく,「研究」の場である.それは学生(大学院生)らが所属する組織の名称にも表されている.一般に大学院には専攻が用意されており,大学院生は○○研究科△△専攻に属することになる.(専門職大学院以外の)修士課程は,研究者として必要とされる基本的な知識とスキルを身につけ,研究成果を出すための方法を実践的に取り組む.その結果,たとえ修士課程の大学院生が研究者としての道を選択しなくても,研究活動の経験から,ある特定の専門分野とその周辺領域に関する高い専門性を有した人材として社会で活躍していくことが期待される.近年では,修士課程の大学院生(主としてサイエンス,エンジニアリング系)に対して,いっぱしの研究者並みに研究成果をあげることを求めるケースが増えてきている.その背景は明らかではないが,少なくても国内においては大学院進学者の増加と無関係ではないだろう.それに加えて景気低迷の長期化に伴う民間企業の人材育成体力の減退も原因の主要因として挙げられるだろう.大半の修士課程修了者は民間企業に就職しようとする.その際,自分が優秀かつ有能な人材であるということを実証するためには,研究実績を示すことが最も説得力があることは言うまでもない.そして企業にとって即戦力であることをアピールするためにも研究実績は有効な武器になると考えられる.このことは,現実に研究実績を多く挙げている大学院生は,就職活動において志望企業からの内定を得ている傾向が高いことからも見て取れる.
博士課程の大学院生は,学生とはいえ,研究キャリアとしてはすでに第1歩を踏み出している.自動車教習所のカリキュラムで言えば,仮運転免許を取得して路上教習をしている段階である.したがって博士課程の大学院生は,すでに研究者としての責任を感じて行動しなくてはならない.また一部ではあるが,研究資金を自分の責任のもとで獲得することも可能になってくる.指導教員によっては,博士課程の大学院生は自分の共同研究者であると考える場合もある.無論そこには,近い将来に1人の研究者として独り立ちできるだろうという見込みが含まれていることは言うまでもない.このように博士課程の大学院生に関しては,1人の研究者として見なした研究活動が期待される.それだけに研究者としてのキャリアをどう今後形成していくかを見据えた主体的な研究活動が必要であり,新しい研究テーマを確立し,その道の第一人者となることを目指す意気込みをもって取り組まなくてはならない.ここまで来たら,あとは自分の実力で勝負していくのみである.厳しくもあるが,その先に自分の力で切り開ける未来があるのだから,ここは正念場として中途半端にならないように全力で駆け抜けるのみである.
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